<テレビドラマへつながる巨匠・佐々木康と映画黄金期>
日本映画の黄金期は当たれば華やかでしたが、1年や2年ほど結果を出さないだけでも苦渋の選択を迫られるほどシビアでした。現在のテレビのベテランのバラエティなどの司会者や出演者などは視聴率が低くても、過去の実積で大きく優遇されていますが、それとは異なって映画時代は主演俳優も監督と同様に困難な一面がありました。
1960年代前半の急激な観客動員の減少は東映だけではなく、日本映画界全体を震撼させました。急激な華やかさは裏を返せば早いサビつきを招く諸刃だったのです。
1年や2年ほど結果を出さないだけでも苦渋の選択は監督にとっても同じことでした。
<あのマキノ雅弘もがけっぷちだった>
戦前に最年少で監督デビューするなど、戦前から数々の映画界の常識をぶち壊してきた革命児のマキノ雅弘でさえ、高倉健の『日本侠客伝シリーズ』がなければ映画界を離れていた可能性さえありました。かろうじて、1964年にヒット作を放ったことに助けられたことからも、まさに首の皮がつながった状態だったのです。
松田定次は当時の日本映画界で最高年俸の監督だったというエピソードが残されていますが、その半面で給料の高さゆえに常に結果が求められる状況だったのです。
(テレビが伝えない佐々木康の大まかな実積1)
<松竹時代編>
佐々木康は戦前から戦後にかけては松竹で活動し、高峰三枝子、桑野通子などの女優の主演スターや名脇役として頭角を現してきた笠智衆の3名の出演作を10作以上で監督しています。これだけでもかなりのことですが、『純情二重奏』(1939)が前後編で作られて大きくヒットしたことで、松竹側も高峰三枝子との名コンビを形成を考えたといえそうです。
その後、佐々木康は戦後初の日本公開映画で歌唱要素のある『そよかぜ』(1945)を手がけています。並木路子の主題歌が戦後直後の解放感を求める人々に好まれ、爆発的なヒットにつながりました。その後もこの勢いで大スター・高峰三枝子の『懐しのブルース』(1948年)から始まる”舞踊4部作”などを手がけ、戦前から歌謡映画のジャンル形成へ大きな貢献を果たしています。
歌と映画をつなぎ合わせた映画の形成に大きな功績があった巨匠でした。
重要なその後は・・・後編へ続く
<戦中も国民を励まし続けた女優王国の松竹と歌謡映画で高峰三枝子と佐々木康の名コンビ>
高峰三枝子と佐々木康の10作以上の名コンビの一つ『撃滅の歌』(1945)、歌を劇中に取り入れた松竹の戦中の貴重な歌謡&戦争の映画です。1945年の3月に公開され、この5ヵ月後の8月に終戦を迎えます。
高峰三枝子、轟夕起子、月丘夢路の女優3大スターは戦中であってもさすがに女優王国の松竹。国内で戦う国民を励まし続けていました。
映画内の劇中曲は名音楽家の万城目正、劇中歌は作詩で西条八十、作曲で 山田耕筰、中山晋平の豪華大御所が競演を果たしています。